2009年11月26日木曜日

事業仕分けに関する声明発表を聞いてきた

今日小柴ホールで最近話題の事業仕分けに関してノーベル賞・フィールズ賞受賞の先生方の声明発表があるとのことで聞きに行ってきました。

大筋として、今回の事業仕分けのやり方が学術分野の予算を検討するにふさわしくないとの主張には賛成です。というのも、同じ国家予算の使途とはいえ、いわゆる公共サービスの提供事業と学術的な事業は評価のされ方が大きく異なるものであるからです。

公共サービスはすでに社会から必要とされているものを提供するのであって、その達成自体が国民の利益となる性質のものです。そのため目標達成のためのプロセスと、外部の人間にとっての評価基準が比較的明確で、その事業自体が無駄であるか否か、またそのためのコストが適切に計上されてされているかどうかを検証しやすい類のものです。
一方で学術的な研究活動は、研究を行っている段階でそれがどのように国民の利益につながるのか必ずしも明確ではありません。けして少なくない数の研究成果が日の目を見ずに埋まってしまうものだと思います。そしてそれらのうちごく一部がブレイクスルーにつながり、経済を潤して生活を豊かにしてきました。ですが、それがどれなのか事前に判断することは容易ではありません。(判断ができるものは国が手を出さずとも民間で積極的に研究されることでしょう。)

今日の講演者の話に「GPS を実現するには相対論が必要」だという例が挙げられていました。もちろんアインシュタインは GPS を実現するために研究をしたわけではありません。おそらく当時の役人や政治家に「運動する物体の時の流れは遅くなるのだ」と力説したところでその研究の意義を見いだすことはできなかったでしょうし、アインシュタインに「GPS のような応用例を出して分かりやすくプレゼンしろ」と言うのも無理な話です。しかし、そのような研究でも結果的に私たちは確かにその利便性を享受しています。小柴先生は自身の研究成果を「何の役にも立たない」と述べられたそうですが、それが本当に何の役にも立たないかはまだ誰にもわかりません。(というよりも、「役に立つ」ことは未来のある時点で証明される可能性がありますが、「役に立たない」ことは人類が絶滅するまでは誰にも証明できません。)

そういう基礎研究に対して、「現時点で役に立つことが証明できなければ継続させられない」と断罪しては大きな機会損失を生じさせる可能性があるわけで、野依先生の「科学技術や教育は短期的な費用対効果で評価されるべきではない」という主張は至極尤もであるように思います。

ただしこれはあくまで基礎研究に関することであって、スパコンの話のような応用寄りの研究に関しては、ある程度の説明責任はあると感じています。それにしたって「目指すのは2位でもよいではないか」との主張は的外れであると思いますが。

追記: この発言は本当に疑問に思っていたためではなく相手に説明の契機を与えるためのものであったとの記述を他のブログで見かけました。その真偽は確認しておりません。
この件に関しては金田先生のサイトからリンクが張られていた以下のサイトの記述が参考になります。


テレビで報じられているものとはずいぶん違った印象を受けました。

メディアといえば、今日の会見でどう考えても報道には乗らない発言があったので、ここに書いておきます。
朝日新聞の記者の「一般の人に科学の大切さを理解してもらうには?」との質問に対して、冗談交じりに利根川先生
「マスコミがいけない。アメリカの有力な新聞社などでは科学部に各分野の専門家、それも Ph.D. をもっているような人を揃えている。そのため一定以上の層の科学に対する理解と基礎研究の重要性の認識が確保されている。数学でも物理学でも一人でやらせる日本の新聞社とは大きな差がある。」
日本の新聞社の実態がそうなのかどうかは分かりません、と申し添えておきます。

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